コミュニケーションの本当の意味は「伝達」ではない

母国語で生活していると、それがあまりにも当たり前すぎて、自分が何をしているのか意識するのは難しい。

外国語を学んで「言葉を使う」ということが不自由になったとき、とてつもなく重要なことに氣が付いた。

勇気を出して打ち明けている

感情も、ぶつけるのではなく冷静に言葉にしている

分かりやすさを心懸けて、易しく丁寧に説明している

だのに

こんなに尽くしているのに

どうして伝わらないんだろう

思い返せば、ヒロインな自分に酔っていた。

(節を付けて歌ったらミュージカルにでもなりそうだ)

しかし本人は、まったく氣付いちゃいなかった。

「伝わるのは言葉じゃなくて在り方だ」

いつか仕入れた有り難い教えも、頭から完全に吹っ飛んでいた。

“Communicate” という言葉の語源を調べてみた。

ラテン語で「共有する・分かち合う・一体化する」という意味

マジっすか⁉︎

いや待てよ、そうだよな。

“Com” って接頭辞からして、そういう意味になるわな。

じゃぁ何で今は「伝える」って意味で使われてるんだろう?

……あぁ。

もともと一つだった私たちに「個人」という意識が芽生えて、バラバラに分離してしまったから、じゃないかなぁ。

わざわざ伝えに行かなければ、共有できなくなってしまったんだ。

コミュニケーションは、だからやっぱり「他人と繋がって一つに戻りたい」という私たちの想いの表れなんだろうなぁ。

ひるがえって、自分は何をしていたのか?

どうやら “戦” をしていたらしかった。

内側の不都合から目をそらすため、外側に、戦うべき相手と戦うべき理由を、せっせと創り出していた。

そんな自分にとって言葉は、正当防衛用の武器と鎧だった。

内側で感情を抑圧すればするほど、外側は饒舌になり、論理が冴える。

しかしその論理は、自己都合で歪みまくっている。

一分の狂いもないほど完璧に美しく歪んでいるので、相手は黙るか逃げるかしかない。

応戦しても意味がないから、言葉を放棄せざるを得ない。

渾身の力で反撃してくれるパワフルな人もいるけどネ。

そしてもっと大事なこと。

仮に剣を鞘に納め、友好的に意図を伝えられたとしても、それを「受け入れるかどうかは相手が決める」ことなのだ。

自分がこんなに尽くしているのだからお前は理解し同意するべきだビ〜〜〜ム!!!

を発射しまくっていました、すみません。

まったくもって対等でない。

戦勝国が敗戦国に不利な条約を突き付ける和平会議のようだワ。

いやぁ〜語学って奥深い。

ちょっと普通じゃない先生に教わった(ちなみに英語です)せいだと思うけど、死ぬまで退屈しない、かもしれない。

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